関蝉丸神社御由緒

 

【御由緒】

 

 当社の創祀は、嵯峨天皇の弘仁13年(822)と伝えられ、小野岑守(小野篁の父)が旅人の守護神である猿田彦命を山上の上社に、豊玉姫命を麓の下社にお祀りしたのが始まりとされている。

 鎮座する逢坂山は京都と滋賀の境で、琵琶湖と京都や畿内を結ぶ交通の要衝として栄えていた。この立地から、国境神・坂神、さらに逢坂の関の守護神として崇敬されていた。貞観十七年(875)には従五位下の神階が授けられ、六国史に記載がある国史見在社である。

 平安時代、天慶9年(946)には蝉丸命が上・下両社へ合祀された。天禄2年(971)に綸旨が下賜されると、歌舞音曲の神として信仰されるようになり、次第に音曲を始めとする芸能に関係する人々の信仰が厚くなった。蝉丸命の信仰は時代と共に全国各地へ広まり、分霊社も多数建てられた。

 関蝉丸神社は、歌舞音曲・芸能の祖神として崇められ、盲目だった蝉丸が開眼したことから眼病に霊験あらたかで、髢(かもじ〈髪の毛のこと〉)の祖神ともいわれている。その人物像は不詳であるが、醍醐天皇の第四皇子とも伝えられ、琵琶の名器・無を愛用した琵琶法師としても有名である。

 蝉丸命や関蝉丸神社は『平家物語』など様々な文献に登場する。和歌・管弦の名手であった鴨長明の『無名抄』にも当社に関する記述が見られる。また、『今昔物語』巻第24第23話には管弦の名人であった源博雅が、逢坂の関に蝉丸という琵琶の名手が住むとの噂を聞き、当時蝉丸だけが伝えていた「流泉」「啄木」という秘曲の伝授を乞うため逢坂山に通い、年の月日が流れた15日、ようやく秘曲を聞くことができたという逸話は有名である。

 蝉丸命といえば、『小倉百人一首』のカルタに描かれる坊主姿が有名である。逢坂の庵より往来の人を見て「これやこの 行くも帰るも分かれては知るも知らぬも 逢坂の関」という和歌を詠んだ。蝉丸の和歌は、上記のものが『後撰和歌集』に収録されているほか、『新古今和歌集』『続古今和歌集』に収録されている三首を含め、計四首が勅撰和歌集に採録されている。能の『蝉丸』(四番目物の狂女物)という曲や近松門左衛門作の人形浄瑠璃の『蝉丸』も有名である。

【本殿・境内建物】

〔本殿〕上社 一間社流造正面千鳥破風唐破風付 間口一間二尺 奥行一間三尺
     下社 一間社流造 間口一間三尺 奥行二間
〔拝殿〕上社 入母屋造 間口二間二尺 奥行二間二尺
     下社 入母屋造 間口二間三尺 奥行二間三尺
〔その他〕上社 神輿庫 手水舎 社務所
     下社 内幣殿 神楽殿 神輿庫 手水舎 社務所
昭和五年郷社に列格した。

 
 
【境内社(摂社・末社)】
下社 貴船神社 中臣稲荷神社 大神宮神 関清水神社 天満宮 (境外) 貴船神社 
 
 
【主祭神】
 
上社 猿田彦命
下社 豊玉姫命
 

【神話・伝承】
〜日本にあった射日神話〜

 垂仁天皇の(第一一代)のとき、九つの日輪が出たことがあった。そこで天文博士を召して占わせてみると、北のはずれのものは本物の日輪だが、南に並んでいる日輪はカラスが化けたものである。このカラスは地上から八町(872m)上にある。射手に勅して射させるか、さもないと天下の物の怪となるだろうと奏上した。。これが日本における梯子のはじめである。 
 時は垂仁帝一八年二月一〇日の辰刻(午前8時)であった。天皇もこれを御覧になるために、武蔵国に行幸した。こうして八人の射手が思い思いに神を念じて矢を放つと、八筋の矢は八つの太陽に当って、筑紫の日向国宮崎郡に落ちた。 
 それからひゅうがとは日に向うと書くのである。その後、天皇は難波の都にお帰りになったが、ほどなくして八つの日輪が献上された。長さ一丈五尺(4.5m)のカラスで尾幅は一丈六尺(4.8m)嘴は三尺八寸(1.14m)あった。そのカラスの首を切らせてみると、二寸(6cm)四方の玉が一つずつ入っており、その中にはどれも一寸六分(4.8cm)の釈迦像が一体入っていた。そこで八つの玉を一つは尾張国熱田の社に、一つは伊勢の外宮に、一つは紀伊国日前宮に、一つは信濃国諏訪社に、一つは豊前国宇佐八幡宮に、一つは逢坂関明神に、一つは摂津国住吉社に、一つは帝の御宝蔵に収められた。例の射手たちは坂東八力国を賜り、天文博士にも若干の所領が与えられたという。

参考文献:『広益俗説弁』正徳五年(1715) 幡竜子(肥後の学者)


文徳天皇 天安元年(857) 逢阪の関を開設、鎮護神として坂神を関明神と称す。 
圓融天皇 天禄二年(971) 当社を音曲芸道祖神とし、明治維新まで免許状を下付。 
朱雀天皇 天慶六年(943) 蝉丸霊を二所に合祈、関大明神蝉丸宮と称す。 
正徳三年(1713) 二品覚尊親王奉幣御参拝 
享保十七年(1732) 実相院宮義周親王奉幣御参拝